2013年09月02日

心の宇宙散策74 生まれる―産むことをめぐる人生ドラマ


 お産は、命がけのドラマである。若い頃の私は、そういうことはほとんど考えず、みんな産んでいるのだから大丈夫くらいの軽い気持ちで最初の出産に望んだ。けれど、第一子は予定日を大幅にすぎても生まれる気配はなく、陣痛促進剤で12時間頑張ってもダメで、帝王切開での出産になった。臍の尾が首にからんでいたので生まれようがなかったらしい。そして、二人目、三人目も帝王切開でないと危険ということになり、3回とも帝王切開での出産になった。

 2回目、3回目の計画的な帝王切開は、不安はあったが楽であった。お産をさせてもらったメディカルセンターでの手術は、外国人医師によるもので、皆で祈ってから始めてくれたので、気持ちがとても落ち着いたのを覚えている。

 けれど最近、帝王切開でうまれた子どもは、自分の意志ではなく、知らない他人に無理に生まれさせられる為、人生に対してもそんな印象をもってしまうことがあると断言するメルマガに出会った。私の子ども達はどうだっただろうかと気になった。それというのも、3番目に生まれた娘は、幼少時より母親である私に対して何かと注文の多い子であったからだ。娘にその情報を送り、「そんなことはあるの?」とメールで問うてみた。娘は、「あー合ってるかもー(笑)、でもそういうの個性とかチャレンジなんじゃない?なんてったって「帝王」ですから」との返事がきた。

 私は、30半ばになっている娘の余裕あるユーモラスな返答に、運命を引き受ける力が育っていることを感じ、安心した。
 家族をつれで夏休みの里帰りしていた息子にも同じことを聞いてみた。30代後半の彼は、「そういうことはない。人は、人生につまずいた時にそのような理由づけをするのだ」との意見である。うん、なかなかいい答えではないか。

 その息子が中学3年に上がる時、私たち家族は、沖縄から名古屋に引っ越した。息子はサッカー部に入ったので、私はサッカー部の母親たちと少しだけ接点があった。その中に、医師の仕事の都合で、陣痛促進剤を打たれて早すぎるお産を強いられたという母親がいた。その母親が言うには、そのひどいお産のお蔭で息子は、幼少時より問題ばかりおこすトラブルメーカーになったのである。そういうことはありうるだろうか。

 初孫が誕生した時、私は名古屋から福岡に会いに出かけた。私は、生まれたての素晴らしいそのまなざしに感動していた。その頃、古い友人が訪ねてくれたので、私たちは赤ん坊から離れておしゃべりに夢中になっていた。すると、しばらくして、目覚めた赤ん坊は「なぜ自分だけ置き去りにしているのだ」とでもいうかのように、泣くのではなく、声で知らせた。おしゃべりしていた私とその友人は驚き、「そうか、そうか、わかっているのだね」と本人の要望(?)に応じたのだった。

 娘が生まれた時にも、病院で同じような出来事があった。帝王切開で生まれた娘は、母親と同室ではなかったので、授乳のときだけ連れて来られた。私は手術の傷が痛かったが、わが子は本当にかわいくて幸せだった。看護婦がきて連れ帰ろうとした時、娘は、悲しそうな顔をした。看護婦は気がついて、「あら、嫌なの」と言った。
 
 翌日、同じ場面で、今度は、同じ看護婦がやってきて声をかけた時、看護婦に抗議するかのように「アン!」と怒りの声をあげた。看護婦と私は驚いた。生まれて間もない娘が、「ママと一緒にいたい」というメッセージを出していたのだ。けれど、当時の病院でのお産は、衛生上や母親の疲労を考慮するとの理由で別室が普通であった。

 胎児は母親のお腹の中でもたくさんのことを聞き、感じている。帝王切開にならざるを得ないとしたら、胎児に事情をしっかり話して聞かせて、臨みたかったと思う。私は娘から「天然ぼけ」と言われるが、赤ん坊だった娘のメッセージを受け止めながらも十分考慮しなかった。母親への娘の注文の多さは、むしろそういう母親を感じていたからかも知れない。

 帝王切開で子ども産んだ私自身にも別のドラマがあった。更年期障害で体調があまり良くなかった頃、自宅にインドのアユールヴェーダの医師をホームステイさせたことがあった。これはいい機会だと夫も私も身体を診察してもらった。私の診察は早朝の食事前の脈診によるものだった。私の脈からの情報で、医師は、「あなたの更年期障害はお産が関係しています」と言った。3度も帝王切開をしたことを知らない彼にそう言われて、私はびっくりだった。

 帝王切開が母親自身にもよくないということはほとんど考えたことはなかった。身体が癒されない痛みを抱えていたのだろうか。考えてみれば、3度もお腹を切りさいておきながら、子宮のことは何も考えたことがないし、感謝したこともなかった。おそまきながら、私は子宮にあやまり、許しを請い、感謝した。私は、自分の身体(子宮や胃など)をいたわり、大事にし、話しかけるようになった。身体はこちらの思いによって変わってくれるものだ。近代科学者は、一笑に付すだろうが、思いや祈りのエネルギーは、心を癒し病気を治す力があると私は体験から信じている。

 人生に問題はつきものである。出産のあり方が、その子どもの一生に影響するとしたら、そのことだけではなく、全体的な、あるいは他の要因も考えなくてはならない。子どもの問題を生まれ方(お産のあり方)という一つの原因に還元して考えることには無理がある。その子のいる環境、関係こそが問われるのではないか。

 しかし、言語を持たない幼少時は、自分の体験を意識化するのがむずかしいので、身体に体験として残り続ける可能性はあるだろう。胎児や乳児であっても、何も知らないと思わずに、話しかけながら共に生きることが重要である。同じことは自分の心と身体との関係にも言える。共に生きること、それはホリスティックに、聖なる気持ちで、つながっている命を生きることである。



Posted by 浅野恵美子 at 17:55│Comments(1)
この記事へのコメント
恵美子さま
 あなたが三度も帝王切開でお子さんをご出産なされたことを初めて知りました。大変お疲れさまでした。帝王切開についてはいろいろな説があるようですが、あなたのお子様たちは大変立派に育っておられるので帝王切開の負の部分は皆無で、あなたがご指摘された通りだと思います。「子どもの問題を生まれ方(お産のあり方)という一つの原因に還元して考えることには無理がある。その子のいる環境、関係こそが問われるのではないか。」
 私は高齢出産でしたが(35歳)幸運にも自然分娩で出産することができました。しかし、持病を抱えていたため、生まれた子供は低体重児でしたが、何とか元気に育ってくれました。妊娠中に医師から堕胎を勧められていましたが、たえず胎児には「頑張って無事に生まれてきてね」と話かけておりました。子供の産声を聞いた時感じたことは、子供の生命力の強さでした。母親の健康状態とはあまり関係ないのだと思ったものです。
 あなたのエッセイを拝読して、自分の体にもときどき感謝しなければならないと痛感させられました。特に私の場合には弱った腎臓に感謝したいです。今度もまた大切なことを気づかせてくださり、深謝いたします。
Posted by 比嘉美代子 at 2013年09月03日 16:45
 
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