2015年01月03日
心の宇宙散策80 近代的思考の限界・閉域を開くアドラシオン思考
フランスの著名な哲学者、ジャン・リュック・ナンシーは、「アドラシオン~キリスト教的西洋の脱構築」(新評論)において、キリスト教を無神論へと脱構築させ、神話も偶像もない「開かれた世界」を示している。無神論はキリスト教の起源に書き込まれていたという。ここでは、ナンシーが示す近代的思考を超える人生の新しいヴィジョンに注目してみたい。
メランベルジェ真紀(訳者)解説によるとナンシーのいうアドラシオンとは、・・・「時間の外」「生の外」「言葉の外」「意味の外」を、今この生のただ中で生きること、すなわち「今ここ」という状況を超過してしまうものを、超過としてまさに今ここで生きること、そのような無限とのかかわりのことである。・・・P243
それは、まるで神を殺し、無限という名の神を生きる新しいマナーであり、「この世」に「あの世」を存在させ(それは古代的な自然な感性であるが)、人々に神話や理性や信仰や言葉などのさまざまな縛りからの自由を与え、縛りではない新たな意味の可能性を自ら開き、個人と無限とのつながりを回復させ、より創造的に、自分が思う自己概念を超えて、万物と共に生きる世界へと導く視座である。
フランス語のアドラシオンは第一義的には、崇拝を意味している。
ナンシーは言う。・・・・崇拝することは、あらゆる宛先を超越するものへと向かう/自らを送る。さらには、それは到達を目指すことなく、意図さえなく向かう。どこかへ向かいさえしないことを受け入れる。それが送られる外を、めざすことも指し示すことも認識することもできないことを受け入れる。それを外と識別できないことさえありうる。なぜならそれは今ここで、他のどこでもなく、大きく開かれた「ここ」で起こるのだから。それは開いた口、あるいは眼、耳でしかない。ただ開かれた身体でしかないのだ。それらのあらゆる開口部に於いて、身体は崇拝/差し向け/語りかけのうちにある。
「大きく開かれたここ」、今やそれこそが世界であり、それはわれわれの世界なのだ。それは他でもないそれ自身に開かれている。自身の内在に於いて超越しているのだ。もはや自分の存在理由を重んじるのではなく、それどころかあらゆる理由(理性)の---また同時にシニカルで懐疑的でばかげた全ての反-理性の---脱閉域を考慮することが世界には求められている。・・・・P54
「身体は崇拝/差し向け/語りかけのうちにある」とか「自身の内在に於いて超越している」とは、いかなることであろうか。それは、自分に見える現実、夢やこだわりや不安などの余剰現実、みえない物や意識できないものすべての身体に訪れる何か、つまり人間的自然を受け入れることであると思われる。それは、自我や理性が関与した意識的に「する」ことが多い日々の中に、自然に「なる」を受け入れて、あるがままの、受け身的な、関係的存在でいること、無限へと呼びかけていくことであるだろう。
ピアノレッスンで苦悩した私のアドラシオンらしき経験とつなげてみたい。
ピアノレッスンを始めたのは、2年前、65歳の時からである。学生時代にバイエルは練習していた。老人でも脳細胞は使えば活性化すると信じて、何とかできるだろうと考えてピアノレッスンに通うようになった。けれど、事はそう簡単ではなかった。自分の脳の機能障害がはっきりわかるほどに、何度弾いてもリズムがつかめず、曲の全体が覚えられず、指は思うように動かないのであった。頭のどこかで脳梗塞が起こっているのだと思った。そこで、曲のイメージを歌詞にして歌えるように工夫することで、曲を覚え、1年目のピアノ発表会は何とかしのいだ。
2度目の発表会は、たったの3人だけの大人の生徒を励ます意味で、二人のピアノの先生の好意から開催された。私は、先生の勧めで、すでに学び終えていたはずの好きな曲を選び発表会の為のレッスンへと入っていった。けれど、なぜか練習の効果が上がらなかった。後で思えば、その当時、私は、ここで話題にしている難解なナンシーの著書を読んでいた。難しすぎる内容に私は混乱した。脳は機能不全に陥り、練習が練習にならず、練習すればするほどできなくなっていったらしい。
「出演をやめた方がいいのでは」との思いも心によぎった。ピンチに陥った私は、宇宙に向かって「神様どうしたらいいですか?」と真剣に呼びかけた。すると「ベストを尽くしなさい」との答えが返ってきた。うまく弾こうとすることを止め、自分のペースで臨むしかないと腹をくくった。
発表会当日、神谷先生との事前の練習もやはり混乱していた。けれど、会場に着くと、会場の聖なる空間とわずかな客に少しほっとした。発表会が始まり、トップバッターで先生との連弾をまずまずでこなし、続いて演奏する他の二人の長い演奏を聴きながら2回目の出番をまっていた。その時、人間関係で困惑する人がよくやる「手もみ」のボディランゲッチを思い出した。演奏をききながら、自分を落ち着かせるために自分の手を揉み続けた。
そして私の出番がきて、ブルグミラー16番「小さな嘆き」を演奏した。緊張しながらも、演奏が進むにつれて、ピアノと自分の情感の世界とが響きあっていった。結果は、奇跡的にも混乱なく弾けたのである。神谷先生は「これまでで一番よかった」とほめてくれた。最善は尽くせたのである。
現代社会についていけなくて、宗教やシャーマンたちの言説やカウンセリングの理論に頼って、自分なりに神話的な世界をつくりながら何とか生きている私が、神の名において無限に呼びかけたことはアドラシアンであっただろうか。人は窮地に陥ることで、無に向かって呼びかけ、無から何かを引き出すことができる。それは、「自身の内在に於いて超越」し、「大きく開かれたここ」を生きた結果だったと思える。空や海を見て、無限や永遠に心を開くことは、大きな世界に自分の居場所をつくることである。
狭い視野狭窄の中で、嘘と現実にまみれて生きている人間。自分を見失って困惑する多くの人々。現代社会は、圧倒的な科学の力、情報過多などで人々の心を路頭に迷わせる装置だらけであると言ってもいいほどだ。お金や競争や名誉に毒されずに、小さな自我を超えた宇宙的な無の世界の中に、本当の自然な自分の願い・欲動を導く大きな力あるということを知る時、何かが変わっていく。しかし、神話は人間を方向づけ励ましてくれるが、それは一方で限界をつくる「閉じ込め」にもなりうる。
神話とは何か。ナンシーは次のように書いている。
・・・神話にもどってはならない。・・中略・・しかし神話作用というものを無力化してはならないのだ。神話作用とは、神話化するのではなく、神話がかつてその文化の中で操作していたことを別の形で再開し展開させる機能である。・・・・中略・・・つまり根底に於いては、限界のなさや測り知れなさや過剰といったものが、自然の生のうち、世界の常軌を逸した秩序のうちに書き込まれたものとして感じられるというその経験を表現することなのだ。
そういう意味でもフロイトは「欲動はわれわれの神話である」と書くことができたであろう。欲動とは、われわれのずっと前からわれわれのずっと先までー生/死まで、内奥/異質のものまで、外部を吸収し/吐き出すまでー押しやり連れていく力である。われわれはその力を経験する。というよりはわれわれとはその力の経験なのだ。・・・中略・・・欲動は神話なく人間を神話化する。それはいわば純粋な神話と言えよう。つまりそこには神々や英雄の姿も不思議な出来事もなく、あるのはただ、意味や関係や世界を生成しながら生きようとするものの表象化できない推進力のみである。それはまた、存在や関係の破壊や死へと駆り立てるような力でもある。・・・・・p156~157
ナンシーは世界に広がっている西欧近代の思考の閉塞性を脱構築するものとして、アドラシオン思考を提示している。それは、科学に囚われず、見えるというシャーマンに惑わされず、世間や宗教的縛りに囚われずに、宇宙的存在としての自己と直接つながって生きよという励ましである。我々を駆り立てる力、「表象化できない推進力」、内から生じる神話や幻想を、宗教という形ではなしに、みてとって生きることは可能だ。人類は科学では捉えきれない世界とつながりながら歴史を紡いできたのだから。
これらの語りは、仏教でいう空、無為自然・無分別知、沈黙の知、瞑想、ワンネスの思想に近いが、「無神論」といいきることで示される何かがある。それは、幻想に惑わされずに、人生における死や無意味を恐れないで生きる覚悟を求めているように感じられる。私たちは、無/空に投げ出されている故、神的な何かを必要としているが、それは宗教ではない形で引き受けることができる。一人ひとりは分断された存在ではなく、サムシンググレイトとつながっている命であるのだ。
アドラシオン思考とは、自分を超えてある無限へと呼びかけ、つながりの中にある関係的生命を生きることである。それは、宇宙的生命の一端を担うものとして、借り物でない関係的で個性的な命を輝かせることである。それが、他者の言説や情報や周りに自分を支配させないで、自立して、常識を超えた新しい何かをみつけて生きる道である。それはまた。「いま、ここ」の無限に身体を開いて、「あの世」と「この世」を同時に生きることでもある。アドラシオン思考、欲動から導かれる神話作用は、人を自分を超えた次元へと超越させてくれるだろう。それは、すでに私たちが無意識にやっていることでもあるだろうが、意識的にやることで、「する」と「なる」を同時に生きることになるのかもしれない。
メランベルジェ真紀(訳者)解説によるとナンシーのいうアドラシオンとは、・・・「時間の外」「生の外」「言葉の外」「意味の外」を、今この生のただ中で生きること、すなわち「今ここ」という状況を超過してしまうものを、超過としてまさに今ここで生きること、そのような無限とのかかわりのことである。・・・P243
それは、まるで神を殺し、無限という名の神を生きる新しいマナーであり、「この世」に「あの世」を存在させ(それは古代的な自然な感性であるが)、人々に神話や理性や信仰や言葉などのさまざまな縛りからの自由を与え、縛りではない新たな意味の可能性を自ら開き、個人と無限とのつながりを回復させ、より創造的に、自分が思う自己概念を超えて、万物と共に生きる世界へと導く視座である。
フランス語のアドラシオンは第一義的には、崇拝を意味している。
ナンシーは言う。・・・・崇拝することは、あらゆる宛先を超越するものへと向かう/自らを送る。さらには、それは到達を目指すことなく、意図さえなく向かう。どこかへ向かいさえしないことを受け入れる。それが送られる外を、めざすことも指し示すことも認識することもできないことを受け入れる。それを外と識別できないことさえありうる。なぜならそれは今ここで、他のどこでもなく、大きく開かれた「ここ」で起こるのだから。それは開いた口、あるいは眼、耳でしかない。ただ開かれた身体でしかないのだ。それらのあらゆる開口部に於いて、身体は崇拝/差し向け/語りかけのうちにある。
「大きく開かれたここ」、今やそれこそが世界であり、それはわれわれの世界なのだ。それは他でもないそれ自身に開かれている。自身の内在に於いて超越しているのだ。もはや自分の存在理由を重んじるのではなく、それどころかあらゆる理由(理性)の---また同時にシニカルで懐疑的でばかげた全ての反-理性の---脱閉域を考慮することが世界には求められている。・・・・P54
「身体は崇拝/差し向け/語りかけのうちにある」とか「自身の内在に於いて超越している」とは、いかなることであろうか。それは、自分に見える現実、夢やこだわりや不安などの余剰現実、みえない物や意識できないものすべての身体に訪れる何か、つまり人間的自然を受け入れることであると思われる。それは、自我や理性が関与した意識的に「する」ことが多い日々の中に、自然に「なる」を受け入れて、あるがままの、受け身的な、関係的存在でいること、無限へと呼びかけていくことであるだろう。
ピアノレッスンで苦悩した私のアドラシオンらしき経験とつなげてみたい。
ピアノレッスンを始めたのは、2年前、65歳の時からである。学生時代にバイエルは練習していた。老人でも脳細胞は使えば活性化すると信じて、何とかできるだろうと考えてピアノレッスンに通うようになった。けれど、事はそう簡単ではなかった。自分の脳の機能障害がはっきりわかるほどに、何度弾いてもリズムがつかめず、曲の全体が覚えられず、指は思うように動かないのであった。頭のどこかで脳梗塞が起こっているのだと思った。そこで、曲のイメージを歌詞にして歌えるように工夫することで、曲を覚え、1年目のピアノ発表会は何とかしのいだ。
2度目の発表会は、たったの3人だけの大人の生徒を励ます意味で、二人のピアノの先生の好意から開催された。私は、先生の勧めで、すでに学び終えていたはずの好きな曲を選び発表会の為のレッスンへと入っていった。けれど、なぜか練習の効果が上がらなかった。後で思えば、その当時、私は、ここで話題にしている難解なナンシーの著書を読んでいた。難しすぎる内容に私は混乱した。脳は機能不全に陥り、練習が練習にならず、練習すればするほどできなくなっていったらしい。
「出演をやめた方がいいのでは」との思いも心によぎった。ピンチに陥った私は、宇宙に向かって「神様どうしたらいいですか?」と真剣に呼びかけた。すると「ベストを尽くしなさい」との答えが返ってきた。うまく弾こうとすることを止め、自分のペースで臨むしかないと腹をくくった。
発表会当日、神谷先生との事前の練習もやはり混乱していた。けれど、会場に着くと、会場の聖なる空間とわずかな客に少しほっとした。発表会が始まり、トップバッターで先生との連弾をまずまずでこなし、続いて演奏する他の二人の長い演奏を聴きながら2回目の出番をまっていた。その時、人間関係で困惑する人がよくやる「手もみ」のボディランゲッチを思い出した。演奏をききながら、自分を落ち着かせるために自分の手を揉み続けた。
そして私の出番がきて、ブルグミラー16番「小さな嘆き」を演奏した。緊張しながらも、演奏が進むにつれて、ピアノと自分の情感の世界とが響きあっていった。結果は、奇跡的にも混乱なく弾けたのである。神谷先生は「これまでで一番よかった」とほめてくれた。最善は尽くせたのである。
現代社会についていけなくて、宗教やシャーマンたちの言説やカウンセリングの理論に頼って、自分なりに神話的な世界をつくりながら何とか生きている私が、神の名において無限に呼びかけたことはアドラシアンであっただろうか。人は窮地に陥ることで、無に向かって呼びかけ、無から何かを引き出すことができる。それは、「自身の内在に於いて超越」し、「大きく開かれたここ」を生きた結果だったと思える。空や海を見て、無限や永遠に心を開くことは、大きな世界に自分の居場所をつくることである。
狭い視野狭窄の中で、嘘と現実にまみれて生きている人間。自分を見失って困惑する多くの人々。現代社会は、圧倒的な科学の力、情報過多などで人々の心を路頭に迷わせる装置だらけであると言ってもいいほどだ。お金や競争や名誉に毒されずに、小さな自我を超えた宇宙的な無の世界の中に、本当の自然な自分の願い・欲動を導く大きな力あるということを知る時、何かが変わっていく。しかし、神話は人間を方向づけ励ましてくれるが、それは一方で限界をつくる「閉じ込め」にもなりうる。
神話とは何か。ナンシーは次のように書いている。
・・・神話にもどってはならない。・・中略・・しかし神話作用というものを無力化してはならないのだ。神話作用とは、神話化するのではなく、神話がかつてその文化の中で操作していたことを別の形で再開し展開させる機能である。・・・・中略・・・つまり根底に於いては、限界のなさや測り知れなさや過剰といったものが、自然の生のうち、世界の常軌を逸した秩序のうちに書き込まれたものとして感じられるというその経験を表現することなのだ。
そういう意味でもフロイトは「欲動はわれわれの神話である」と書くことができたであろう。欲動とは、われわれのずっと前からわれわれのずっと先までー生/死まで、内奥/異質のものまで、外部を吸収し/吐き出すまでー押しやり連れていく力である。われわれはその力を経験する。というよりはわれわれとはその力の経験なのだ。・・・中略・・・欲動は神話なく人間を神話化する。それはいわば純粋な神話と言えよう。つまりそこには神々や英雄の姿も不思議な出来事もなく、あるのはただ、意味や関係や世界を生成しながら生きようとするものの表象化できない推進力のみである。それはまた、存在や関係の破壊や死へと駆り立てるような力でもある。・・・・・p156~157
ナンシーは世界に広がっている西欧近代の思考の閉塞性を脱構築するものとして、アドラシオン思考を提示している。それは、科学に囚われず、見えるというシャーマンに惑わされず、世間や宗教的縛りに囚われずに、宇宙的存在としての自己と直接つながって生きよという励ましである。我々を駆り立てる力、「表象化できない推進力」、内から生じる神話や幻想を、宗教という形ではなしに、みてとって生きることは可能だ。人類は科学では捉えきれない世界とつながりながら歴史を紡いできたのだから。
これらの語りは、仏教でいう空、無為自然・無分別知、沈黙の知、瞑想、ワンネスの思想に近いが、「無神論」といいきることで示される何かがある。それは、幻想に惑わされずに、人生における死や無意味を恐れないで生きる覚悟を求めているように感じられる。私たちは、無/空に投げ出されている故、神的な何かを必要としているが、それは宗教ではない形で引き受けることができる。一人ひとりは分断された存在ではなく、サムシンググレイトとつながっている命であるのだ。
アドラシオン思考とは、自分を超えてある無限へと呼びかけ、つながりの中にある関係的生命を生きることである。それは、宇宙的生命の一端を担うものとして、借り物でない関係的で個性的な命を輝かせることである。それが、他者の言説や情報や周りに自分を支配させないで、自立して、常識を超えた新しい何かをみつけて生きる道である。それはまた。「いま、ここ」の無限に身体を開いて、「あの世」と「この世」を同時に生きることでもある。アドラシオン思考、欲動から導かれる神話作用は、人を自分を超えた次元へと超越させてくれるだろう。それは、すでに私たちが無意識にやっていることでもあるだろうが、意識的にやることで、「する」と「なる」を同時に生きることになるのかもしれない。
Posted by 浅野恵美子 at 21:57│Comments(1)
この記事へのコメント
浅野恵美子先生
明けましておめでとうございます。新年早々風邪をひき、たった今拝読しました。「アドラシオン思考」についてていねいにご説明くださり、感謝いたします。今回は脳みそをフル回転しても難解で、先生が具体的にエピソードを記してくださったおかげでやっと理解できるような気分になっています。ありがとうございます。「一人ひとりは分断された存在ではなく、サムシンググレイトとつながっている命であるのだ。」somthing greatにつながっているというう発想は大変面白いと思いました。
明けましておめでとうございます。新年早々風邪をひき、たった今拝読しました。「アドラシオン思考」についてていねいにご説明くださり、感謝いたします。今回は脳みそをフル回転しても難解で、先生が具体的にエピソードを記してくださったおかげでやっと理解できるような気分になっています。ありがとうございます。「一人ひとりは分断された存在ではなく、サムシンググレイトとつながっている命であるのだ。」somthing greatにつながっているというう発想は大変面白いと思いました。
Posted by 比嘉美代子 at 2015年01月13日 19:28