2012年03月31日

心の宇宙散策67・・バリ島の魔女ランダ

  
 エヴィデンスや科学的厳密さだけを信じる科学(=近代知)だけでは人間理解は難しい。高度な言葉を駆使した論説も、生身の人間とのつながりが見いだせなければ意味がない。むしろ、祈りのある言葉や物語や文化を通してこそ人間理解は進むのではないか。
 
 それ故、哲学者の中村雄二郎によって広く知られるようになったバリ島の魔女ランダに関心があった。中村はバリ島のコスモロジー(宇宙観、世界観)、特に魔女ランダからヒントを得て、女性原理に通じている受け身の知、体の知、関係の知、演劇知などを導き出したことでよく知られている。
 
 念願かなって、格安ツアーで魔女ランダがいるバリ島へ、実質的には3日だけの滞在であったが、行くことができた。すっかり観光化が進んでいる島の大通りは、オート-バイと車がひしめき、排気ガスがあふれていた。けれど、町や家なみは装飾的で美しく、バリ在住の友人夫妻に案内されたレストランでは、森とつながった空間や竹づくりの大きな円形広場などため息がでるほどの素晴らしいヒーリングスポットにも出会った。
 
 中村が注目したバロン劇(善獣バロンと魔女ランダが主役的存在)を私も見た。それは観光客向けであったが、本当の祭の劇では、演者が恍惚状態になって気がふれる場合もあるようだ。私にとって、日本語で紹介されたその物語は、意味が全く分からなかった。

 魔女ランダはいろいろな姿で現れ、災いをもたらし、死に神でもあるのだが、戦いで窮地に陥ると「天国に行かせてくれ」と頼み、死なせてもらう。けれど、ランダの妹分のカリカが現れて、戦いへと強いられ、追いつめられ、全力を振り絞ってランダに変身する。そして、善獣バロンの登場となるが、バロンとランダは同じ力を持っているので、互角に戦って、いつまでも決着がつかない。バロンのいる所には必ずランダがいる。ちなみに、バロンはバリ・ヒンズー教における善の怪獣であり、日本の獅子(シーサー)と同じだそうだ。

 私は、その劇の意味を知りたくて、改めて中村氏の著書「魔女ランダ考」(岩波書店 1990年)を読み直した。そして、その理解に苦しむバロン劇の物語の中に、バリ島の世界観、生きる知恵、子どもの教育や人の心を鎮める機能,近代知が排除したものが、活かされているという彼の発見(解釈)を詳しく知ることができた。中村氏は、西洋哲学や諸宗教やバリ島の屋敷の基本や祭りや祈り等をとりあげ多角的にランダという存在の意味について考察している。

 それらの内容をすべて理解し、納得できたわけではないし、バリ島こそが理想郷とも思われないが、興味深い内容であり、彼の論説に学んで、カウンセリングに関わっている立場から、魔女ランダという存在から私たちは何を学びうるのかについて考えてみた。
 
 一つは、バリ島では、悪い魔法(魔女)という存在を暮らしの中で常に意識し、存在させ、その霊力を恐れて花などをささげて祈っているが、それは何故なのか。バリでは祈りや祭りが非常に多く、娯楽的な側面もあり、かなりのお金をつぎ込んでなされている。土地のあちこちに、祈りの花や食べ物が捧げられ、道路にまで花がおいてあった。それは、悪の魔力を鎮める営みであるが、死を意識する効果もあるようである。

 考えてみれば、人間は悪い魔法にかかるものだ。思い込みや不安(あるいは妄想)から抜けられなくなってしまうことは、多少は誰にでも起こっている。ひどい犯罪は魔力かも知れない。

 愛知で2000年に起こった子ども殺人事件はそれを思い出させる。殺人を犯したその母親は、幼い息子の受験ライバルの子どもに殺意をいだき、その殺意が頭から離れなかった。「人を殺すかも知れない」と夫に告白したが、夫には意味がつかめなかった。そして、母親はとうとう息子のライバルとされた子どもを本当に殺してしまったのである。

 人は、思いもかけない内なる魔力に翻弄されることがあると考えた場合、バリの人々はそれに警戒しながら暮らす文化を育てていると考えられる。

 二つは、バリ島の宇宙観は、私たちが考える単純な善悪論ではないことである。善の側とされるバロンも怪獣であって絶対的な善ではない。私たちはいい人であることが、当たり前だと思いがちであるが、そうではない。現実の人間の心は、善と悪にきれいに分けられるものではない。悪が善になり、善が悪になるのであって、悪と善はいつも同居しているのだ。光があるから影が見え、影の中にいるから光がいきてくる。これは、絶対矛盾であり、私たちはそこから逃れることはできない。近代人はそのことを忘れがちであるが、これが人間の自然なのである。

 この和解できない永遠の矛盾を引き受けることが人生だというバリ島の隠された教えは、注目に値する。人は矛盾の只中でいきて、変化適応し、生き残っていくものである。

 三つは、ダブルバインド(二重拘束)の考えを見いだしたグレゴリー・ベイトソンが、バロン劇を「子どもにとって母親の何たるかを知り母親から独立する為の劇」(上掲書p195)であり、「人為的にダブルバインド状況を作り出しつつ、それから自由になる訓練」(p196)とみなしているとされる観点が興味深い。

 ベイトソンは、ダブルバインドの考えをバリ島からヒントを得て考えたそうだ。それは、父と母の和解できない葛藤の中で、どっちにもつけない子どもの苦境ともつながっているだろう。私は、女性相談で夫婦の問題で悩む女性たちに出会っているが、男と女の関係の難しさを考えさせられている。男と女、父と母は、完全和解は難しいと考える方が現実的かもしれない。

 魔境に陥り易い人の心、受苦的存在としての人間(受け身の知)、すっきりできない人間関係を私たちはどう引き受け、昇華・発散させているだろうか。

 ( 注;ダブルバインドとは、例えば、母親が「キスはしてくれないの」と子どもに言いつつ、実際はキスされることを望んでいない場合のように、子どもの側が二重に縛られ、動きがとれず、何もできなくなる状態に追い込まれている関係のことである。)




Posted by 浅野恵美子 at 11:45│Comments(0)
 
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