2011年09月18日

心の宇宙散策62 生きることは人生からの問いに答えること

 V・E・フランクルの「それでも人生にイエスという」(春秋社)を読むと、強制収容所とからんだ話であるにもかかわらず、今の私たちの心と深くつながってくることに驚く。

「かつてニーチェは、来るべき数世紀の予言として「神の死」を告げた。神の死とは、我々の人生を意味づける超越的根拠が無化し、その結果いっさいの価値が相対化し、根底において無化することである。われわれは自らを支える絶対的根拠を欠いたまま、無の深淵の上にさしかけられている。」(p169)

 フランクルによると、人間にとってもっとも重要なことは、「生きる意味」であり、生きる意味は、自分が考え出すのではなく、人生からの挑戦をうけて、それに答えることで見つかる。強制収容所では、生きる意味が見いだせない人は生き残れなかった。誰かから待たれていたり、やらねばならない仕事があった人は、自分を見失わずに生き残ったのである。

 話は変わるが、私の兄は、今深刻な脳梗塞の手術をへて病床にいる。つまっていた脳血管の血栓を取り除き、脳の血液の流れを回復させる危ない手術は成功し、身体は少しずつ動けるようになってきているが、記憶の障害は何ともならないと言われている。
 
 見舞いに行っても会話は少なく、わずかであり、私を認識できないこともあり、何もしてやれない気持ちであった。けれど、思いついて足に手当てをして共にいることにした。足の冷たさが伝わった。しばらく触れていると閉じがちの目がぱっちり開いた。そして、「父ちゃんはもう何もやることないなー」とぽつりと言った。
  
 夢をみているのか、私を娘と思ったのかわからない。そこから会話をしていくと「おれの人生はもうお終いかなー」とつぶやく。「死ぬことは心配いらないらしいよ。生きる必要があれば生きるよ・・・」などと答えたが、「死ぬことは心配していない」という。こんな情況で、兄は、生きている意味をどう見いだすのだろうか。
 
 次の見舞いでは、姉と姪と私の3人で触れてやり、「3人の美女に触られて幸せだねー」と昔話をしながらからかった。すると、まんざらでもなさそうに「幸せだ」と答えていた。

 頭に触れてみるとじりじりと熱を帯びているのが分かる。「少しは気持ちいい?」と訪ねると「すこし気持ちいい」という。そして、「この頭は治るだろうか」とつぶやいた。

 兄が治って生き残れるのかはわからない。けれど、問題は、治るか治らないかではなかった。兄を通して出された人生からの問いに、向き合い、兄とのささやかな幸せな時がうまれ、逆に私が励まされていたのである。

 共にいたこと、触れ合えたことに生きている意味があった。

 「もし、それを私がしなければ誰がするであろうか。しかし、もし私が自分のためにだけそれをするのなら、私は何であろうか。そして、もし私がいましなければ、いつするのだろうか」(P56)との言葉は、人は人生から問われて生きるということの真理を示している。



Posted by 浅野恵美子 at 21:56│Comments(0)
 
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