心の宇宙散策55・・心の影・悪魔性

浅野恵美子

2011年02月28日 14:10

  先日、沖縄ドラマ教育研究会2月例会でたった4人の参加であったが、絵本(The Giving Tree)や詩(山ノ内漠や谷川俊太郎のもの)やヨブ記(旧約聖書)などを通して、詩の心と現実にいる心の双方を生きている心理の即興劇や討論をした。
 
 翌日、新聞を開くと、辺見庸の「水の透視画法60 狂気かくす排除の論理」がのっていて、私たちが話題にした「悪魔」が問題になっていた。辺見氏は、秋葉原求刑公判事件について、新聞のみだしが「悪魔の所業」と書いていることに驚いたが、論告正文(検事側)でも「人間性のかけらも感じとることができない悪魔の所業・・・」と同じ表現が使われていることを知る。
 
 そして、「検事たちも記者たちも悪魔の存在なんか信じていまい。非在のものを裁判に持ち出し記事に書くその心根に、手におえない思念の廃れを感じる」「近代の知がこしらえた「人間」という価値概念は、ヒトが実は恐るべき「非人間」の反面をふくみもつにもかかわらず、それを他者として切りはなし、他者を排除・抑圧することでヒトとその社会に本来的に潜在する暴力性や狂気をかくそうとした」等と批判している。
 
 人は、その心の宇宙に闇も光ももっている存在であり、神的にも悪魔的にもなりうる存在である。だから、自己の内なる悪魔性がわからないということは、いい人ではあっても大人としては弱いのではないか。個人レベルでは愛すべき個性であるのだが・・・

 研究会では、旧約聖書のヨブの物語から悪魔論がはじまった。神を信じて疑わない敬虔なヨブは、家族を次々に失い、自分自身も見苦しい皮膚病に苦しむはめになる。なぜ、善良に生きてきた自分に神はこのような不幸をあたえるのかとヨブは神に向かって絶望して叫ぶ。ヨブはこのような苦しみの中で神から離脱させようとする悪魔の誘惑を受け続けるが、最後には、悪魔に打ち勝ち、繁栄へと至るというのがヨブの物語である。
 
 討論では、自分の内側にある弱さや至らなさはあるが、それを悪魔と呼ばなくてもいいのではないか、ヨブは神と悪魔の双方と向き合っていて実に人間的である、日本人は自己の内なる悪魔性をもっと自覚する必要がある、人間関係に巻き込まれ厳しい状況にいるので、自分は悪魔的(嫌な奴)になっていて周りを責めているなどの意見がでた。
 
 大自然としての神はすべてを包み込み、悪魔性をも受けいれ活かしていく働きではないか。悪魔は内なる影であり打倒の対象ではない。光だけを受けいれようとした近代知の無理から、抑圧された悪魔性が内側で強化され悲惨な犯罪を招いているかもしれない。すべてはつながりあって生じてくるのであり、世の中に無駄なものは一つもない。犯罪も人間社会の自然である。内なる影・悪魔性と対話することで、自他の関係は変化し、光がさしてくるはずだ。・・・